Prince Monthly Column

2020/02/26

42年も愛され続けてきたプリグラは、なぜ伝説となり、なぜ生き続けてきたのか?
デカラケの起源からプリグラを知ってほしい。

テニスはむずかしい……の常識を変えてしまった「デカラケ」の誕生
〜 ハワード・ヘッドが「テニス下手」だったから 〜

ベテランテニスプレーヤーで【プリンス グラファイト】という名を知らない方は、おそらく皆無でしょう。ただし、それがいつの時代の【グラファイト】だったかによって、その存在意義は違っています。

1970年に、アメリカ ニュージャージー州のプリンストンという都市に、ボールマシンの製造販売メーカーとして誕生したのが『プリンス社』の始まりです。たった一人でもふんだんにボールを使って練習できるよう、球出しを機械に任せるという考え方が、いかにもアメリカらしいですね。

その地味なアイテムの製造メーカーに転機をもたらしたのは「ハワード・ヘッド」という人物です。彼はスキーやラケットで世界的に名を馳せる、あの『ヘッド社』の創始者で、目的を達成した後は、悠々自適の隠居生活をしていました。そしてその有り余る時間に「テニスをしてみよう」と思い立ちました。テニスラケットメーカーの総帥でありながら、ヘッド氏はテニスに関しては、ど素人だったのです。

いざコートに立ってボールを打ってみると、まともに返球することができません。ラケットの中心をちょっとでも外すと、グリップが回されてしまい、打球はヘナヘナと相手に届きもしません。「なんじゃこりゃ! 面白くないじゃないか!」……と放り出さないのがハワード・ヘッド。

「だれでもテニスを楽しめるようじゃなきゃイカン!」と、ルールブックを読み込んだ彼は、あることに気が付きます。「ラケットの大きさに関する規定がまったくない。ということは、大きいラケットがあってもいいわけだ……」。プリンス社の会長に収まっていたヘッド氏は、その会社に、面の大きなラケットを作らせます。

それまでのテニスラケットの面サイズは「70〜75平方インチ」くらい。それがあたりまえであり、テニスラケットとは、そういうものだったわけで、デカいラケットなど、誰も考えませんでした。

1976年、世界初のラージサイズラケット【プリンス クラシック】が発売されました。これには3つの大きなメリットがあります。一つは「デカいから、空振りしない。ボールに当てやすいし、当たりさえすれば返球できて、ラリーができる」。ハワード・ヘッドの悩みは、多くのテニス初心者の悩みでもあり、彼らを希望の光で照らしました。

2つめのメリットは「格段に増したパワー」です。それまで「君にテニスは向かないね」と言わなければならないくらい非力な人にも、ラケットにボールが当たりさえすればラリーを楽しむことができるようになったのです。

そして3つめのメリットが「面の横幅が広いため、回転慣性が高くなり、面が安定するので、ちょっとくらいラケットの芯を外しても、しっかり返球できる」ということです。これこそが、デカラケがプロプレーヤーにも使われるようになった要因だと思います。

ゲテモノ扱いされたデビュー時代。笑った者が2年後には、目が点に
〜 1978年、最高額のテニスラケット登場! 〜

プリンス クラシック

デカラケ登場当初、それを初めて見るほとんどの人が、眉間に皺を寄せました。「なんだ、その醜い道具は!」と言わんばかりの視線を浴びせます。大のオトナが、そんなものを使っていたら笑い者にされるぞ! デカラケは、子供が自転車の乗り方を覚えるための「自転車の補助輪」のように扱われたのです。

ところが、それを使うプロ選手が現われます。パム・シュライバーという、わずか16歳の少女が……180cm以上の長身のため、我々日本人には「少女」には見えませんでしたが……USオープンの決勝に進出してしまったのです。しかも、決勝ではクリス・エバートを相手に、5-7、4-6という健闘ぶりを見せました。

その彼女が手にしていたのが【プリンス クラシック】です。デカラケがグランドスラムの決勝に使われた……という話題は世界を駆け巡り、プリンス社は世界各国の販売店から輸入のオファーを受けます。これを機に、世界に「デカラケ」が送り出され、「テニスはみんなのスポーツ」として愛されるようになりました。

当時の日本では、テニスはまだ「庭球」であり、一部の方たちの嗜み程度に見られていました。また日本テニスには「庭球道」みたいな気運が残っていましたから、店頭に並ぶデカラケは「オバケ」だの「ウチワ」だのと揶揄されました。でも、シュライバーがジュニア世代でUSオープン決勝まで勝ち進んだ事実は曲げようもなく、日本でもデカラケを使ってテニスを覚え、実力を開花させるプレーヤーが生まれ始めます。

その先頭に立っていたのが、丸山薫選手。もちろん彼も、テニスを始めたときには小さいラケット(レギュラーサイズ)を使っていたわけですが、初めてデカラケを使った瞬間、衝撃を受けたと話してくれました。「デカラケを使って打った第1球、あまりのパワーに驚きました。バックフェンス直撃です。それをコートに収めようとスピンをかけたとき、第2の衝撃が走りました。めちゃくちゃスピンがかかるんです。こんな凄い武器があるのに、小さいラケットに縛られる必要はない! と決断して、すぐデカラケに乗り換えました」。

これがフォアもバックも両手打ち、デカラケでガンガン叩き込む「丸山薫スタイル」を生んだのです。オトナにはプライドがあるため、簡単にデカラケを手にしたりしませんが、ジュニアたちにはそんなもの関係ありません。「強くなれるなら……」、デカラケは心強い武器となりました。

その丸山選手のラケットがカッコよかった。まだ小さなサイズのウッドラケットが主流だった時代、彼が両手で握るのは「真っ黒く光沢あるラケット」……【プリンス グラファイト】だったのです。

日本で初めて販売されたときは、たしか「¥84,000」。現在のグローブライド(株)、当時のダイワ精工が正規輸入を開始した当時は「¥90,000」で、すべてのテニスラケットの中でもっとも高価なラケットだったのです。今の時代なら、3本も買えちゃいます(笑)

歴代のスタープレーヤーが信頼を置いたプリンス【グラファイト】
〜「デカラケ」があったからこそ、今がある!〜

プリンス グラファイト

それまでのテニスラケットも、いろんなものが登場しては消えていっていました。最初のイノベーションとしては「第一次素材革命」。薄い木の板を貼り合わせて成型して作るウッドラケットから、金属製のものが生まれます。当初は重いメタル製でしたが、重すぎるために「アルミ製」になります。【プリンス クラシック】もアルミ製でした。

しかし、本当の素材革命は「カーボン製フレーム」が誕生してからです。これが「第二次素材革命」で、グラスファイバー強化、メタルコンポジットなどの経緯を経て、カーボン+グラスファイバーのフレームが登場します。これによって製造技術は進化しますが、テニス自体が進化したわけではありません。

テニスを革命的に変えたのは『デカラケ』なのです。テニス人口の飛躍的拡大、プレースタイルの変化をもたらしたデカラケこそ、最大のラケット革命であり、今に至ってもなお、これを越える衝撃的技術革命を迎えてはいないのです。1976年のデカラケがあったからこそ、ラケットが今日のような発展を遂げたと言っても過言ではないでしょう!

なんだか演説みたいになってきたので、話を【プリンス グラファイト】に戻しましょう。【グラファイト】は、あまりにカッコよすぎました。漆黒のボディに、グリーンのストライプが精悍さを増します。また余談になりますが、【グラファイト】に続く当時のカーボン製ラケットは、みんな黒がベースでした。黒いことがカーボン製ラケットであることの印であるかのように。それはまさしく、【プリンス グラファイト】が作ったスタイルだったように思います。

【グラファイト】が「元祖」だった証しが、初代【グラファイト】に残されています。グラファイト製のフレームに空けられた孔(ストリングホール)には、なにも装着されていません。ストリングがフレームにダイレクトに接触しながら通される仕組みで、これを我々マニアは「グロメットレス」と呼び、稀少なものとして位置付けています。後にごく一部のラケットでも採用されますが、フレームとストリングがダイレクトに接することによって、ストリングが受けるダメージが大きいため、1985年にはピングロメット(単独グロメット)、1987年には連続グロメット(グロメットスリーブ)が装着され、他のラケットも同様の仕様となります。

そんな【グラファイト】は、若いテニスプレーヤーたちの憧れでした。まず高価であり、そうとうな思い切りがないと買おうなんて思えない。1982年当時の大卒平均初任給は「¥127,200」です。普通の若者には、とてもじゃないけど ¥90,000 のラケットなんて買えません。

そしてもう一つの鍵として「多くのトッププロが使っていた」ことが挙げられるでしょう。日本で開催される国際大会に出場する選手が【プリンス グラファイト】で大活躍する姿を目の前で見ても、あまりにも遠い存在すぎて、現実とは思えないくらい気持ちが高まったものです。もちろん、テレビ観戦するグランドスラム大会では、【グラファイト】が一閃する瞬間にドキッとします。

当時、日本のトップジュニアが集まる「桜田倶楽部」に所属するジュニアプレーヤーたちも、プリンスを使う選手が多く、【グラファイト】を使えるジュニアは、その中でも選りすぐりのトップレベルであることを示していました。

「あのラケットを使えたら……」、誰もがそう思ったことでしょう。1987年、為替レートのおかげで、【プリンス グラファイト】は ¥68,000 で買うことができるようになりました。おそらくこの頃から、僕たちはこのラケットのことを【プリグラ】と呼ぶことができるようになった気がします。

1990年代になると、あの選手も、この選手も、みんな【プリグラ】でプロデビューしていました。いや、【プリグラ】が世界への途だったのかもしれません。思い返してみれば、みーんな【プリグラ】使ってましたよね。

デカラケは世界を変えたが、プリンスはつねに頂点にいた
〜 プリンス「110」の秘密とは〜

ベテランテニスプレーヤーたちは、「デカラケ」という単語を見聞きすれば、ほぼみんな「プリンス」を頭に浮かべるでしょう。でも、デカラケはすぐに各メーカーが追随して発売しました。「ラケットというのはこういうもの」と、誰もが勝手に思い込んでいた世界を、プリンスが変えることができたのは、他社が追随することを許したからです。

プリンス社のデカラケ発表を知り、当時の国際ローンテニス連盟は、急遽、ラケットのヘッドサイズについて規制枠を設けることを検討しました。各社とも、その新規格内であればデカラケを作ることができたのですが、プリンスよりも大きなサイズを作ることはできなかったのです。

その権利を守ってくれたのが「特許」です。プリンス社は「ラケットのサイズ」について国際パテントを取得しており、「5年間は他社がそれより大きいラケットは作れない」ことから「110平方インチ」という有名なサイズが守られることになったのです。

じつは、プリンス社が最初に提出した特許申請は却下されていました。「形状・サイズは特許対象ではなく意匠デザインである」と突き返されたのですが、フェイス面積拡大によって二次的に派生する「スウィートエリアが面積的に3倍以上に拡大する」というメリットに着目して主張し、それを構成するための形状・サイズが110平方インチであるとしたことで、許可が下りたのです。

さて、その「110平方インチ」なんですが、正確に測ると「107平方インチ」だったそうです。そのへんの表示については、世の中的に鷹揚だったようですね。当時は現在のように正確なフェイス面積表示をする例は少なく、プリンスでは「フェイス面積 50%アップ」と謳っていました。

ところが、この「110」という数字を各社とても魅力に感じていたようで、プリンス社のパテント期間が終了すると同時に、「110」を謳うメーカーが現われます。その後、【プリグラ】は、時代の流れが作る「ラケットテクノロジー」を取り入れながら内部構造を少しずつ進化させつつ、【プリグラ】というスタイルを守り通してきました。それは「オレは【プリグラ】でなけりゃダメなんだ!」というユーザーがいたからであり、とくに日本には、そういった愛用者が多いのでした。

話は尽きませんが、次回は、今年発表された【ファントムグラファイト】について紹介します。これまで漸進的に進めてきたアップデートを、一気に加速させ、現代のテクノロジーを満載したバトルモデルへと生まれ変わらせたのです。キーワードは「107」「どこがグラファイトで」「どこが最新なのか?」です。乞うご期待!

text by 松尾高司(KAI project)

1960年生まれ。『テニスジャーナル』で26年間、主にテニス道具の記事を担当。
試打したラケット2000本以上、試し履きしたシューズ数百足。おそらく世界で唯一のテニス道具専門のライター&プランナー

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